マネキンと青年(再掲)

  • 2018.02.15 Thursday
  • 22:15

マネキンと青年(再掲)

その通りは大きな欅の木の角を曲がった裏道で、人通りもまばらだった。「シルエット」という名の小さな洋裁店は、週替わりで色とりどりのドレスをマネキンに着せる。夏の終わり、白いレースのドレスを着たマネキンは、薄氷のような硝子のショウウィンドウの中で、いつものように手を空に差し伸べていた。

マネキンは美しく、微笑みは静かだった。夜になると店は、入り口に掲げた店名を黄金色のネオンで光らせる。燈火の下のマネキンは、控えめな虚栄の満ち足りた優しいまなざしを、帰路を急ぐ夕暮れの人々に注いでいた。

マネキンはほんとうに、ただ空をばかり望んでいたのだろうか? 穏やかな微笑み、何色のドレスも似合う凛とした青い瞳、きりりと結ばれた唇、天の雫を受け止めようとするかのように掲げた白い手首は、本当に空をばかり望んでいたろうか?そうではなかった。マネキンは、毎朝必ず前を通る一人の青年に恋していたのであった。

欅の木に蝉しぐれが盛んな夏のある日、近所に引っ越してきた青年は、新聞配達のアルバイトを始めたので、この洋裁店の前を通るようになったのである。

青年の風貌はと言えば、短髪に黒縁の眼鏡をかけた地味な様子だったが、手際よく新聞を郵便受けに差し込んでいく青年の右手の甲には、野の花の一茎を手折ったような形の、青い痣があった。瑠璃色の小花を添えて新聞を挿し入れるような、彼の手さばきを眺めることが、いつしかマネキンの楽しみになった。

青年は毎朝必ずショウウィンドウの前で立ち止まった。
「なんて綺麗な服だろう」
ショウウィンドウの硝子は、薄氷のようではあるが、青年の呟きをけっしてマネキンに伝えない。
「こんな服を彼女にプレゼントできたらなあ」

マネキンと同じくらい清楚な、ある少女に思いを寄せている青年は、そう言ってほっと溜息をついた。秋の始まりのそのドレスは、朱色の上等なウールのワンピースで、胸から腰へのすらりとしたラインは、ほっそりした少女にさぞや似合うことだろうと思われた。

しかし硝子の中のマネキンは、青年が自分を見つめる一途な視線に心を動かされたのだった。青年がマネキンの顔に、少女の面影を映して見ているとは知らず、青年の切なげな眼差しを、自分への情熱と取り違えたのである。

「あのひとはまるで」
マネキンはひとりごちた。
「私の手を取って、このウィンドウの外の世界へ、連れて行ってくれそうね」

外の世界を知らないマネキンは、そう思うと心が弾んだ。
「あの人と並んで」
マネキンは日がな、夢見る面持で空想した。
「私は公園に行くわ。赤い靴を履き、街でお茶を飲み、あのひとと夜は踊ろう」

「秋が終わる頃にはきっと」
マネキンは確信を持つようになった。
「あの人は私をここから連れ出してくれるに違いないわ」

青年が新聞配達のアルバイトを始めたのは、愛しい少女に洋服をプレゼントしたいと思ったからだった。翌週になり、洋服屋の女主人は、秋らしい青いタフタのドレスをマネキンに着せた。モダンなデザインのその服は、しなやかな身体つきのマネキンによく似合った。マネキンの頬は輝きを増し、手足は今にも踊り出しそうだった。

青年はアルバイトを始めてから、服を買うのがとても楽しみだった。薄氷のようなガラスに手をついて、青年はマネキンに話しかけた。
「彼女に一番ふさわしい服を」
青年の言葉はマネキンには聞こえない。
「着て見せておくれ。その青い服もいいけれど、少し大人っぽいみたいだ」


「あなたの声は聞こえないけれど」
「あなたの目が前より明るくなったから、きっともうすぐ私を連れ出してくれるのね」
「あなたと二人で街に出たなら、私はあなたの右側にいて、あなたの手の甲にある青い野の花の印を見つめながら、あなたといろんなお話がしたいわ。あなたのことをもっと知りたいから」

「でもあなたの心臓の側にいるときは」
「ただ黙ってあなたのそばにいつまでもいたいわ」

そしてまた数週間が過ぎ、マネキンの服は淡い緑のツーピースに代わった。青年の贈り物の日は近づき、その眼は期待で輝いた。
「ねえ、マネキン、来週にはきっと買えると思うよ。その緑の服もとても素敵だが、彼女には落ち着きが過ぎるみたいだ」

マネキンの肌は透き通るように白くなり、唇はより柔らかくなった。空に差し出された手はより高く掲げられた。
「きっと私を連れ出す手筈がうまくいっているのだわ」
マネキンには疑うべくもなかった。
「あの人の目はもうあんなにも自信に満ちているのだもの」

次の週になり、マネキンはコスモス色のパーティドレスを着て、薄氷のような硝子の向こうに立った。金髪はとうとうと肩に流れ、長い睫は悦びに慄いて深い影を含み、青い瞳は力強い意思を宿した。指先まで細やかな愛情が満ち溢れた。

青年は叫んだ。
「ああ、これこそ」
マネキンにはそれがまるで自分への告白のように見えたのだった。
「彼女に似つかわしい服だ。まるでコスモスの妖精のように愛らしい。この週の終わりには、きっと手に入れることができるだろう」

青年は洋裁店に入ると、女主人とドレスを買う約束を取り付けた。それを見たマネキンが、自分を連れ出す約束をしていると思い込んだところで、何の不思議があったろう。その一週間、マネキンと青年は、確かな約束を持つ者同士の信頼を持って、毎朝まなじりを交わし合った。

その週は雨さえも降らず、透き通った空にチラチラと星の瞬く秋の日が続いた。週末が来て、青年は落ち着いた足取りで洋裁店を訪れた。マネキンには何もわからなかった。ただ青年は大きな紙袋を抱えて店を出て行き、女主人は次週のために作ってあった黒い盛装用のドレスを、マネキンに着せたのだった。

月曜日が来て、マネキンがどんなに悲痛な視線を青年に向けても、彼はもうショウウィンドウの方を見向こうともしなかった。青年の愛する少女は、そのパーティドレスを着て、今週末彼と街へ遊びに出かけることを、あの土曜日の晩に約束したのだから。コスモス色のドレスは、少女にとてもよく似合うだろう。彼女の軽い、速いステップの周りで、ドレスの裾は輪を描いて舞い、青年がそっと差し出す腕に支えられて、少女は小鳥のように踊るだろう。

冬が来ていた。
ストーブを焚き始めた洋裁店のウィンドウは、水蒸気で曇りがちになり、女主人が日に幾度拭いても、すぐにまた曇った。ヴェールのようなぼんやりとした膜が硝子を覆ってしまうので、冷気の中を首を縮めて往き交う通行人も、もはやウィンドウの中のマネキンをじっと見ることは無くなった。

ひっそりと蒼ざめてゆくマネキンを見ていたのは、冬も葉の落ちない大きな欅の木くらいであったろう。マネキンの眼は見えぬものを見るように見開かれ、薄い紫さえ帯びた唇はおびえてうっすらと開かれた。金髪は色褪せて細い針金のようになった。肌は脆くなり、室内の蒸気に侵されて細かく剥がれ落ちた。手は相変わらず空に差し伸べられていたが、すがりつく何かを求めているかのようでもあった。細い足首にだけ、最後の力が、こわばった身体を支えていた。

その週もまた終わり、新しい水色のオーバーコートを着せようとマネキンに近づいた女主人は声を高めてこう言った。
「まあ、このマネキンときたら、こんなに色褪せて、あちこち剥げ落ちているわ。新しいマネキンに変えなくては駄目ね」
彼女はさっそく電話をし、三日後には取り替えに来てもらうことになり、とりあえずその分厚い水色のコートを、傷んだマネキンに着せた。

半月の夜、女主人が店を閉めた後、マネキンは屹然と、月光を浴びて立っていた。その細い足が、ゆっくりと、月の巡りを追いかけるように、傾いていくのに気づいた者は誰もいなかった。足は時計の針と同じ正確さで南向きのウィンドウの硝子に向かって倒れてゆき、同時にマネキンの影はゆっくりと後ろにまわった。

明け方、ぱきんという音をたててマネキンを土台に止めつけていた掛け金が壊れた。彼女は急な角度で硝子のウィンドウに突き当たり、硝子板は大きな音をたてて割れた。

冬の幸福な眠りの中でおぼろげにその音を聞いた隣人らはいるとしても、その光景をじっと見ていたのは、大きな欅の木くらいなものであったろう。ただ欅の木は何も言わず、マネキンが朝の薄明りの中に大音響とともに投げ出された時も、そっと目を伏せただけだったが。

やがて太陽が昇り、陽の光は細かく砕け散った硝子の破片の中に横たわるマネキンを眩く照らし出した。瓦礫の中央でマネキンは白い手首を宙に差し出し、見えぬものを見るように大きく目を見開いていた。

ただその唇だけは、もはや弛んではいず、あの夏の終わりの季節のようにきりりと結ばれ、唇の両脇を少しすぼめるように静かに微笑んで、控えめな虚栄の満ち足りた優しさを浮かべていた。

水色のオーバーコートを着て澄んだ冬の空の下に横たわるマネキンを最初に見つけたのが、新聞配達のあの青年であったことに、マネキンが気づいたかどうかはさだかでない。律儀な青年は、少しばかりの間自転車を止めて、あっけにとられたあと、配達に遅れまいとして、瑠璃色の花が刻印された若々しい手で、また自転車のハンドルを握り直した。

作:小山景子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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    ゴールデン街 裏窓への道順その他

    • 2017.11.03 Friday
    • 22:59

    さて。裏窓までの道順です。 どう行ったってよいのですが新宿は靖国通りのドンキホーテから出発してみます。地下鉄の人はすいません。ゴールデン街の入り口のとこから読んで下さい。

     

    ドンキを左に見て靖国通りの歩道をどんどこ進みます。 しばらく5分ほど行くとミスタードーナツがありまして、ミスドの裏から細い遊歩道が出ております。地図で見ると細い弓なりの小道です。ここを2分かそこら歩きますともうゴールデン街です。

     

    問題はこっからなんですが、小山はもう数え切れず裏窓行ってますがいまだに迷いながら行ってます。が 具体的には「3番街」です。ゴールデン街の入り口から入ったら、すぐ左に折れます。 一つ目のT字路は1番街なのでスルー。二つ目のT字路が3番街です。たぶん。目印は裏窓の隣の店「スエズ」の看板です。どっからどう読んでもスエズなのですぐわかります。3番街の真ん中らへんにあります。スエズの横が裏窓です。

     

    暇な人はここを見てください。エリアDですね。  

     

    http://www.goldengai.net/shop/

     

    昔のゴールデン街はおっかなくてうら若き頃の小山はハバナムーンに行かないといけないとき、男装して出かけてました。すると客引きに「先輩!いい娘いるよ!」と声をかけられたものです。 今は高校の文化祭の廊下を歩いているみたいな感じで全然怖くありません。最近は外国人の観光客が異様に多いです。むしろ怖いのは一見伝統的な感じの花園神社でしょうね。たまに夜中に人が殺されたりしてますから。 若い娘さんやイケメンの息子さんはスカウトに声かけられるかもしれませんが無視してください。(当日そのような娘さん息子さんが裏窓に来るかどうかは別として。)

     

    予約はありません。チケットのない方は当日直接お越しください。小さな店なので座れるかどうかはわかりません。売り切れはないでしょう。気が向いたらふらっと来てください。 それと、今回お土産は、前回3月と同じ絵柄の絵葉書のみとなりました。大阪もあるので人数の都合上、デモCDRは作れませんでした。(ただの小山のズボラ説は一応否定。)そのうち無料DLとかなんか方法を考えます。

     

    ドリンクはソフトドリンクであればコーヒーが美味しいです。紅茶はありません。料金は音楽チャージが1500円、ドリンクがコーヒーが500円、アルコールも500円〜700円です。小山ひとりに2000円。高っ! びっくりした。精いっぱい歌います。(小山的にどちらかとゆうと下手なピアノが大変。)アンコールあればそれもできる限り歌います。

     

    そうそう、セットリストですが、前回演奏できなかった黒い涙とかパントマイムは、チャレンジはしてみたのですが、今回は演奏できません。すみません。黒い涙は全くもって難しい。歌えるのでが、転調ありのまま止まらないで弾くことは不可能でした。なのでほとんど前回と同じ曲目ですが、小山なりに新しい発見や歌い方を発見しつつ練習しましたので、お楽しみ頂けるかと思います。(ただの小山のズボラ説は一応否定。)

     

    あと、無伴奏で中原中也の「臨終」(これは小山が勝手に曲をつけたやつ)と「小さい秋」(みんな知ってる童謡)を歌います。

     

    とても良い店です。とゆうか特別な店なんです。外はゴールデン街ですが、どこでもドアみたいなドアを開けて、入ってドアを閉めればそこは別次元です。

     

    どうぞよろしくお願い致します。 小山景子

    80年代インディーズとレコードレーベルのこと

    • 2017.06.25 Sunday
    • 12:00

    受け止め方が難しい部分もあるテーマなので今まで何も言わずに来たことだが、書き留めておきたいと思う。

     

     

    アナログレコード「記憶の水の運河」の録音完了後、最初、メンバーの小山哲人氏を通じて、モダーンミュージックの生悦住氏に連絡し、PSFからのリリースを打診したことがある。しかし当時、わりとすぐに生悦住さんから断りの返答をもらった。理由は、PSFのレーベルカラーに合わないから、という理由だった。

     

     

    この頃はピナコテカとPSFが東京では代表的なインディーズレーベルだった(他にもアルケミー、のちのバルコニーとなるアスピリン、神奈川のクラゲイル等各地域に多くのインディーレーベルはあった)。ピナコテカの佐藤氏には、最初からあまり気に入ってもらえないことはわかっていたので、依頼すらもかけなかったように記憶しているが、音源は聞いて頂く機会があったようで、何かの集まりで佐藤氏と会った時、佐藤氏からは「つまらないと思う。漫画の主題歌の音楽のように感じた」という旨の率直な意見を私に対してきっちりと述べてくれた。

     

     

    両レーベルからの協力が得られないことが判明ししばらくはリリースもせず放置状態にしていたのだが、結局、メンバーの小山哲人氏が全面的に製作を引き受ける形で、完全な自費リリースに至った。彼なしにはきつねのよめいりのアナログレコードのリリースはなかったし、リリース後の流通についても彼の人脈と手配によるところが非常に大きい。

     

     

    小山哲人氏は、言わずと知れたA-Musikのベースのみならず、町田町蔵のバンド、他にも多くのインディーズバンドで活躍していた。どのバンドでも縁の下の力持ち的なスタンスで常にバンドのために奔走していた。現在ではA-Musikでのみ時たま活動しているが、様々な音源に残されている通り、骨太で簡素なラインでありながらバンド全体の音を引き立てる音質・リズムを安定して保持する、優秀なベーシストだった。

     

     

    80年代当時、世の中は今ほど多様化していなかったので、主流となるメジャーの音楽に相対する形で、都市部のインディーズがあった。そしてさらに、日本流のプログレッシグ・ロックのジャンルがそれとは別の狭い独特の世界観を形成していた。カトゥラトゥラーナとか、私がボーカルをやっていたラクリモーザもその一部だった。

     

     

    当時インターネットはなくメディアは雑誌のみだった。ロッキングオンはほとんど洋楽専門で、日本のインディーズ音楽を裏打ちするように、まずJAMなどのパンク・ニューウェイヴ雑誌があり、一方でプログレファン向けのフールズメイト、さらにその裏(?)を行くマーキームーンという雑誌があった。マーキーの初期にはわたしも編集で参加している。

     

     

    20代前半のわたしは、自分に与えられた選択肢のなかで、世俗的な魅力と連帯感を持つニューウェイヴやプログレに関わりつつも、それらすべてをも遠ざけた孤絶の立場を擁しているかに見えた竹田賢一率いるVedda Music Workshop への参加を選びとっていたように思う。

     

     

    あまのじゃくで相手を信用しきらないコウモリさんのようなわたしの音楽への態度が、結果的にプログレのメンバー半分、パンクのメンバー半分というバンド「きつねのよめいり」の結成の起点となっている。

     

     

    だから、そんなきつねのよめいりの音楽を聞いたPSFの生悦住さんが、わたしのニューウェイブに対する不信感、というよりは「全面的賛同の拒否」を敏感に察知して、これはPSFからは出せない、と言ったのはもっともなことである。また、インディーズの王道を行くピナコテカの佐藤さんには最初からとても言い出せない状況だったのも、当然のことだった。佐藤さんはわたしに近しい位置にいた(しょっちゅう吉祥寺マイナー系のライブで顔は合わせていた)から、率直に、この音楽はインディーズじゃないよ、インディーズを裏切っている、という感想を述べてくれたのも、非常に的を射た批評だった。

     

     

    最近になって人から伝え聞いたことだが、きつねのよめいりのレコードにある程度知名度が出てきてからも、モダーンミュージックの店頭には「記憶の水の運河」のアナログレコードは並べておらず、来店した客が「きつねのよめいり、ないですか」、と訊くと、生悦住さんは、「ありますよ」、といって店の奥から出してきたそうだ。そして、「あるんだけど、店頭にはちょっとわけあって出せないんだよね」と仰ったそうである。客は不思議に思ったそうだが、それは、自分がリリースを断ったレコードなのにヌケヌケと店頭に出すのは矛盾している、という実直な考えがあったのではないかとわたしは思っている。

     

     

    今日は生悦住さんの追悼ライブがあるということで、わたしとPSFの関わりを思い出したので、忘れないうちに書いておこうと思った。今思い返してみると、例えば生悦住さんのように、日本のインディーズをしっかりと守り、有象無象の中から自分の信じるバンドを擁護していた人々がいたからこそ、80年代インディーズはひとつの強力なムーブメントを作ることができた。これは間違いない。

     

     

    自分に振り返ってみると、あの時インディーズからさえも異端扱いされた(PSFやピナコテカにすらわかってもらえずはじかれたことに当時はもちろんがっかりした)ことが、今になってみれば、自分の一生涯を決する価値観にとって大きな糧となっている。

     

     

    今でもわたしは、容易に他者と活動をともにはしないし、音楽をひとつのまとまったムーブメントとか主義・ジャンルで捉えることはしない。まったくジャンルの違う音楽や、誰からものけ者にされるような活動でも、面白いと思ったらそれは存在意義が大きいと思っている。

     

     

    そしてこれから、余命がいくつあるかはわからないが、もしも、もうひと仕事できるなら、やはり、どんなジャンルにも属さない、あるいはいくつかのジャンルをごちゃ混ぜにした、奇妙な音楽を目指している。

    2017.6.25 小山景子

     

    コンポステラライブ映像公開にあたって

    • 2017.06.15 Thursday
    • 22:11

    コンポステラ 1991年8月29日 CLUB QUATTRO 
    https://www.youtube.com/watch?v=NkxNuaOHs3Q

     

    ツイッターのアカウントを持ってない方も当然おられると思うので簡単にブログで報告させて頂く。1991年8月にクアトロで行われたパフアップ祭りの中のコンポステラの映像を抜き出してYou Tube にあげて頂いている。

     

    これは、当時コンポステラのマネージメントをやっていた方の一人であるKさんが入手し大切に保管していたものである。結局見つかっていないが、まずアナログのマスター・テープが(おそらく間違いなく)最初に存在し、これはそのアナログ・コピーをさらにデジタル化したものだ。

     

    あまり詳しい情報はバンドメンバー、マネージャー含め持っていない(または忘却のかなた)なのだが、パフアップのFさんが、何らかの目的を持って(例えばテレビ会社に売り込むとか、DVDとして発売するとか)撮影し、御覧の通り、プロの編集スタジオで編集も完了させた作品である。

     

    演奏の良さもさることながら、コピーでは十分伝わらなかもしれないが、Fさんが取り仕切った音響・録音技術の高さも、生半可な企画ではなかったことが推測される。(以前誰かに、Fさんはマイクで音を録ると同時に天井近くにも集音装置をつけて高品質の録音を実現していたと聞いたことがある)

     

    コピーを自宅に保管していたKさんは住んでいた集合住宅で他の世帯からの出火による火災に会い、その際もテープを運び出して、消防車の水に濡れたVHSを乾かすなどしてその後も保管していた。

     

    そして、これももうだいぶ前だが、非常に優れた演奏なのでコンポステラのファンがみんな見れるようにしてほしいという要望とともにそのVHSを私が借り受けた。これ以上劣化しないうちにと、とりあえずすぐデジタル化したが、その時点で一部の映像の乱れと音飛びがあったので、そのまま修復はできずに今回あげている。

     

    それからレコードレーベルD社のKさんに相談したところ、マスターの捜索に大変尽力してくださったのだが、結局3年経ってもマスターの所在が明らかにならず、発起人の私としては、このままの形でもとりあえず、篠田バンドのファンや、また、初めて聞く人にも公表するべきと考え、公開させて頂いた。インターネット公開にあたっては、N氏にご協力頂いた。

     

    音楽の権利関係については、パフアップを主催していたF氏が当事者と思われるが、彼もまた数年前に逝去している。

    連絡をとるべき方々には然るべき了解を得て、今回の公開に漕ぎつけているので、問題はないと考えているが、もしもマスターを持っている、という方がいたら連絡を頂くと大変ありがたいと思う。

     

    当初マスターは見つかるつもりでいたので、きちんとしたDVDとして制作される予定であった。今回の音源はコピーのわりには音はまあまあだが、いつかはマスターが見つかり、マスターの音質で、正式にDVDとして発売されることを切に願う。だが、これまでの経緯から、そう簡単にはいきそうにないと感じているので、今回無料公開の手配を私の判断でさせて頂いた。

    もしも正規のリリースとなった暁にはYouTubeのほうはすぐに閉じる予定でいる。

     

    わたしの連絡先は従来通り、以下の通りです。

    keikokoyama3319@gmail.com

    ブログは操作方法があまりよくわからず、反響を送って頂いても見れなかったりするので、上記メールアドレスまたはツイッターへの返信でお願い致します。

     

    また、今回は多くの方のご厚意と協力によって公開の運びとなりました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。

    小山景子

    2017年3月28日のライブのお知らせ

    • 2017.03.22 Wednesday
    • 22:06

    もう来週になってしまいましたがブログでもライブ告知します。

     

    期日:2017年3月28日火曜日

     

    場所:下北沢ネヴァーネヴァーランド

     

    時間:18時開場(喫茶・レストラン)

     

    開演:20時

     

    出演:‐山景子(20:00〜21:00) ⊃径爾韻鵑召Α21:00〜22時)

     

    チャージ:予約1500円  当日1800円  +ドリンク500円〜

     

    予約・問合せ:kokutenki3319@gmail.com

     

    小山景子演奏曲目:荒城の月/もうすぐここから/再びのバビロン/疾駆/コラル/春の丘/遊覧船/Elias

     

    ゲスト:松村剛

     

    ※来場者に音源と絵葉書をセットにした小さなプレゼントあり。

     

    詳細はtwitter 小山景子 @jjjuliaaaa をご覧ください。

     

    どうぞよろしくお願い致します。

     

    小山景子

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    凍える冬と温かいお湯

    • 2017.02.11 Saturday
    • 11:15

    子どもというものは、辛い記憶や自分にとって不可解すぎる体験は、なるべく記憶の倉庫の奥底にしまって、開けないようにするものだ。それは生きていく術のひとつである。だが年を経るにつれて、徐々に扉ががたついて、ふとしたことから転がり出ることがある。もう一度、埃を払い、丁寧に包みなおして、置き場を確かめてから、ゆっくりと扉を閉める。二度と棚から落ちることのないように。


    湯沸かし器が壊れてから、この冬水で炊事をしている。生来の臍曲がりのせいで壊れた文明を修理するのが意に沿わない。プロパンなのでガス代もかかるし、録音があって節約もしたい。屁理屈をつけたが、本当は冬の水の凍えるような冷たさを思い出してみたかった。


    そして、思い出したことがあった。私が高校2年の時、同級生の女子を1ヶ月ほど、自宅に寝泊りさせたことがあった。私の家は両親と一人っ子の私の3人暮らし、同級生の友人も一人っ子だった。


    理由は、その女子(仮に冬子さんとしよう)のお母様が、自宅で縊首して自死したので、お父様が仕事で留守にする昼間に、一人でその自宅に居るのは辛かろうから、という経緯だった。


    ただでさえ多感な娘が、そんな経験をしたうえ、いかに善意であろうとも、他人の家で(しかも一見幸福に見える友人宅に)生活するのはさぞかし煩わしかったかもしれない。


    冬子さんは本当に賢明で我慢強い人だったから、本来なら耐ええないような苦難もどうにか乗り越えていった。


    その後彼女は米国へ留学し、離れ離れになり、数年して大学生になった頃か、下北沢でばったり会った。再会で交わした会話で、私は当時世間知らずの傲慢な女子高生だった自分が、彼女に対して配慮が足りなかったことを詫びたく、だがそれもうまく言えずに、代わりに、わたしの母は冬子さんに対して無礼や意地悪はなかったですか、と訊ねた。


    すると冬子さんは、「いやいや、景子さんのお母さまはほんとうによくしてくださった。寒い冬の朝に顔を洗って歯を磨くたびに、洗面所まで熱いお湯を薬缶に入れて持ってきてくれた。そういう優しさはよく覚えている」と答えたのだ。


    景子は、ここでまたひねくれて、「ああ、そうだったの、よかったわ。私にやった意地悪を冬子さんにしなかったなら」と答えて自分の気持ちをごまかした。


    冬子さんは当時もう大人だったから、わたしの質問になにか影があることは察していたかもしれないが、良識に基づいてひとつの真実のみを答えてくれたのだろう。いずれにせよ彼女のこの答によってわたしはひとつの救いを得た。

     

    冷たい冬の水によって思い出された過去の一コマから、わたしの隠されていた記憶はあっという間に、地中の灰色の蛇のようにひきずりだされる。


    中二の冬、2階建ての自宅の2階の自室にいた私は、1階からただならぬ声で呼ぶ父の声を聞き、すでに漠とした予感を胸にぶらさげて階下に降りた。大量の血の匂い、倒れた母。救急車は呼ばないと父は言い、タクシーで病院の救急に運んで、結局傷はそうたいしたことはなかった。

     

    前後の経緯は省くが、当時のわたしが一番押し殺した感情は、自分が捨てられたという気持ちだった気がする。だが、その前に自分が捨てたのかもしれないとも感じていた。仕事で留守がちの夫を持つ専業主婦と、一人娘との関係は、知っている人ならだいたい想像はつくだろう。一種の依存かもしれない。


    不可解な事柄、あるいは隠さねばならない真実を巡って、大人の攻防が続いた後、我が家は一見平穏な日常を取り戻した。娘はそんな事件にあまり傷ついている風にも見えず、勉学をよくして地元の受験高へも入学した。わたしは母の自慢であった。


    そして高校2年生、くだんの友人の事件が起きたのである。いったいどういう経緯で、我が家に冬子さんを呼ぶことになったのか。誰かが止めるべきだったのか。我が家の3年前の事件はもちろん誰も口に出さないので、冬子さんは何も知らない。理由はわからないがなぜか居心地の非常に悪い小山家で、彼女は誰も傷つかないよう気をつかいながら、うまく切り抜けて1か月後に父親とともに遠くに転居した。


    今ならようやくわかるが、一種の対人障害を持つ母が、相当な努力をもってして、他人の娘を預かったのは、わたしに対する詫びだったのだろう。もしも狂言でなくほんとうに自殺したら、自分の娘はこんな風になっていた。言葉で表すことは不可能な後悔の気持ちを、行動で表したのだと思う。


    だが、この1ヶ月の間、母は折に触れては冬子さんの生活について影でさんざん意見を述べ、わたしは冬子さんを母がいじめているのではないかと危惧した。一方で、一人っ子で同世代の人と暮らしたことのない我儘なわたしは冬子さんに傍若無人にふるまった。大人になってから私は、ただでさえ傷ついていた彼女を当時さらに傷つけたのではないかとおおいに怖れた。そのため下北沢で再開した後前述のような質問をしたわけだ。


    灰色の、舌すら出さずさらさらと滑るように這い出てきた蛇は、最後の鋭く尖ったしっぽを見せる。まるでもう死んでいるかのようにぐったりとしているが、よく見ると40年近く生きている。その目は、なぜか、どことなく優しく悲しい爬虫類の眼だ。


    冬子さんとその父は、お母様の法要が終わった後、自宅を処分して転居し、冬子さんは海外に留学した。


    高校3年になって、わたしの別の友人の女子学生が、自殺し、神戸新聞の3面にも載って、夕方学校から帰ったわたしを玄関で迎えた母が、わたしの顔を見るなりぼろぼろと泣いて、どうしたのかと問うと、新聞に彼女の記事が載っていたとわたしに伝えた。


    共通一次試験の前夜で、高校の誰からも何の連絡もなく、どうしてなのかと母が訝ると、父は、明日が試験だから、誰もが生徒に対してひた隠しにしているのだろうと答えた。わたしは父に付き添われて通夜に行った。翌日の試験会場で、わたしは誰にもそのことは言わずに、試験用紙は白紙で提出した。


    後年、生前の母と何かの会話の時、当時の話題になった。「通夜に付き添ったことについて、その日の帰り道に景子に礼を言われたが、そのことがとても嬉しかった」と、お父さんは言っていたよ、と母がいつものように俯きながらわたしに伝えた。


    母との確執がなければ、父もおそらく、他の多くの受験生を抱える家庭と同じように、それは「なかったこと」にしようと思ったのではないだろうか。一瞬迷いながらも、やはり娘を通夜に行かせる決断をしたのだ。


    仮通夜の席でもまた、高層階から飛び降りた友人との対面は赤い色の記憶だが、それを見たことがたとえ戦争体験に近いとしても、今になってそれを否定するつもりはない。それがある種の戦争体験なら、少なくとも必要とする人に対しては、語って語り継いでいかねばならない。ある種の人々にとっては、現実は常に戦場である。

     

    薄灰色の蛇は今、眠るように眼を閉じて、とぐろを巻いているが、わたしが立ち上がればきっと、また元の穴にするすると音もたてずに入っていくだろう。


    薬缶で湯を沸かし、お茶を淹れて、今日の録音の準備をしよう。とりとめもなく書いたが、読み返すのは難儀なので、このまま投稿しようと思う。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    インディーズPA論パート2

    • 2017.01.04 Wednesday
    • 11:20

    誤解のないように言い添えておくが、私の去年のライブの場合、毎回ハコのエンジニアまたはエンジニア役の人は、とてもよくやってくれている。エンジニアを困らせている、あるいは困らせることすらなく勝手に思い悩んでいる、コマッタちゃんは私のほうである。だいたい、森田童子様でもないのに、囁き声で歌う、しかもそれをロックバンドで歌いたいなど、勘違いとまでは思わないが、少なくとも前例があまりない。規格外の方針である。ならば自分できちんと方法を確立せよ。

     

     

    それはそうなのだが、わたしが変えたいと思っているのは今のインディーズ全体の、一応商売だから、という曖昧な部分から来る環境なのだ。 いくばくかではあっても報酬をもらうプロ、セミプロの歌手なら、環境が悪くても文句を言わずにやりおおせるのが筋だ、という見方もあるだろう。だがうちらは(あえて括らせてもらった。うちら=私の意見に多少賛同してくれる方達)、そうではなくて、資本主義経済の中で金銭を取得するためではなくて、「互いに理解しあうために」音楽をやっているのではなかろうか。

     

     

    大抵はノルマ達成できず、バンドマンで経費頭割り。スタジオ代も頭割り。交通費も、打ち上げ費も、自腹。でもすごく楽しいからやっている。 これからはそうゆう時代だと思う。やっとそうゆう時代が戻って来たとも言える。スローフードがあり、スロークローズ(大量生産の衣類でなくて古着や自分らで作った手作りの衣服を着る)、スローライフ、そしてスローミュージック。

     

     

    ちなみにわたしは、アニメファンのコスプレもそういう考えの一環として、すごくおもしろい日本の文化だと思っている。若い人達はそれぞれユザワヤに行って布やカツラを手に入れ、自分ちでミシンを踏んで好きな衣装を作って作っている間も楽しんでいる。

     

     

    臥薪嘗胆・刻苦勉励ではなくて、やってる最中も、練習中もある程度は楽しく、せめて自分の声くらいはちゃんと聞こえる環境でないと、そもそも続かない。 他にも弊害はある。ドラマーのボーカリストが少ない。ギターやベースがコーラスを入れるのを嫌がる(笑)。バイオリンとかフルートとか、世の中にはいろんな楽器があるのに、そういう少数派で音量の小さい楽器をバンド編成に取り入れづらい。入っても、楽しくないからやめてしまう。結果、いつまでも旧態然としたロックバンド形態のままで、観客も飽きてくる。古臭い。

     

     

    こんなに科学が進歩してるのだから、やってできないはずはない。

     

     

    最近バンド形態のロックミュージックが若い人の間であまり流行らなくなってしまったのは、コスプレやアニソンファンに比べると昔ながらのこういった障壁が残っているせいであまり楽しめないのにお金がかかるからというのはあると思う。これは軽視していると大衆的双方向性ロック音楽それ自体の衰退を招くと私は思うのだ。 続きます。。。

    PAのこと今昔そして

    • 2017.01.04 Wednesday
    • 01:43

    わたくしごとではあるが、元々声量があまりない。ラクリモーザはチェンバーロックといえど多人数編成なので非常に難しかった。A-Musikも同様だった。きつねのよめいりは自分のバンドだったのとライブハウスがボーカル向きのハコだったのでかなり救われたが、それでもやはり相当苦労した。

     

     

    ボーカリストというのは、自分の声がしっかり聞こえないと音程がとれない。
    当然といえば当然だが、意外に、理解されないところもあるのだ。昔、A-Musikのツアーに同行して、場所はどこだったか忘れたが、竹田さんがやはり、自分用のモニターがなかったためにうまく歌えず、その事についてライブ後の打ち上げで当人を含めて話にのぼったことがあった。1980年代の話だ。自分の声がまったく聞こえなかったら音程はとれない、と竹田さんが言ったところ、誰か(リスナーだと思う)ええ〜そうなんですか、でもそれって気合でどうにかなるんじゃないんですか、と言っていた。びっくりしたが、案外、大音量のロックバンドをバックにステージに立ったことのある人じゃないとわからないんだ、と思った。

     

     

    自分にしてはわりと大きな声で歌っているのに自分の声がほとんど聞こえない、ということの不自然さ、不便さは、経験した人でないとわからないだろう。聾唖の人で、声は発せるが耳が聞こえないので喋れない、という方がいる。声を発することはできても、それが聞こえないと、言葉にはならないのだ。そういう人たちが努力して話ができるようになっているのをテレビなどで見かけると、大変な努力をされたのだな、と思う。声は高くて、抑揚が大きくなっているが、それでも、第三者に聞いてもらい、どこをどう直せばいいかを教えてもらって、最大限、普通の喋りに近いようにいわば人工的につくりあげているのだろう。自分には聞こえない音を、推測と想定で外部に向かってだけ創造している。例えて言えば、目の見えない人が具象の彫刻を作っているようなものである。

     

     

    ロックのライブを小規模のライブハウスに見に行くことが今も多いが、大音量のロックバンドの場合、ボーカルの音質は大抵、ボーカリストの立場からすれば最悪以下のものである。今も昔も変わらない。音程と、ざっくりした音質しかわからない。微妙なというよりも、ごくあたりまえの音量の大小すらも出せない。よほど大声の人でないかぎり、マイクに唇をじかにあてるようにして歌わなくては、楽器の音量に相対する音量が出せないからだ。もちろん、ドラマーも、弦も、それぞれ不満は山のようにあるだろう。それぞれの立場のことしかリアルにはわからないし、みんなが希望を言い出すとキリがないから、みんなガマンしている。

     

     

    ギターやベースは、いったん自分のそばにあるアンプに入れてからPAに行くので、まだいい。ボーカリストの前には一応モニターアンプがあることもあるが、それはPAに送られた後の音がモニターに戻って来ている点がギターやベースとは違う。そういう点ではバイオリンや音の小さいフルート等の管楽器も同じ立場だろう。

     

     

    わたしは一般的なロックのボーカリストよりも声が小さいので、録音も難しいことが多かった。ただ、ラクリモーザのシングル盤の録音は奇蹟的にうまくいった。どうしてかわからないが、推測としては、ラクリモーザ全体が生楽器の多いバンドなので、生声の録音もある程度、道ができていたのだろう。

     

     

    囁きに近いようなピアニシモから絶叫まで、声というのは一番音量の差が激しい「楽器」で、そこを掬い取らないと歌の良さは十全には出せないと私は思っている。

     

     

    録音が先だったので、その後のラクリモーザのライブは厳しかった。本番前リハで、歌っても自分の声がまったく聞こえないので、少しでもPAに近づこうと思って前に出るとハウリングし、ミキサーに、「そんなにPAに近づいたらハウるに決まってるじゃないか!」と怒鳴られた。自分の声が聞こえないと歌えない、と説明しても、何ワガママ言ってるんだ、という(言われてこそいないが)感じだった。冒頭の「気合説、精神論」みたいなのは、ライブハウスのミキサーですらも少し持っているような気がする。

     

     

    楽器奏者にしてみれば、声の大きいボーカリストを採用したいだろう。小さな声のボーカルとか、音質を優先してマイクで拾うことに固執するバイオリン、なんて邪魔なだけかもしれない。

     

     

    声量があって、発声方法が正しく、声帯から発する音を頭蓋骨に正確に当てることができるため周りがどんなにうるさくても自分の声を頭蓋内で聴けて音程がとれる、というのが優れたボーカリストの資質であるのはわかっている。だがそうでないボーカリストのほうが多い。

     

     

    わたしは、自分が下手だから、「資質的に優れた人だけが歌を歌っていい、歌いやすい」という世の中に反発がある。みんな、ごく普通の人も歌を歌って自分の気持ちを吐き出していいと思う。カラオケなんかに行って出来合いテンプレートで自分の気持ちを代弁させるよりは、どんなに下手でも、自分で作った歌を、その地域のちょっとした公共の場で、互いに聴き合ってわかりあえるというのが、音楽的にリア充な社会だという理想を持っている。

     

     

    そこで、ここに述べたような問題が出てくるのである。去年あたりから長らくやめていた音楽をまた始めるにあたって、若い頃みたいにまたライブで嫌な思いを抱え続けるのは極力避けたい、という気持ちがある。正直、ライブでの自分のサウンドの難しさがなかったら、ライブはもっと楽しかったろうし、長く続けていたかもしれない。

     

     

    もちろん、だから本来は、ボーカリストの前にはモニターアンプが転がっている。とゆうか、大抵は「一応」転がっている。ちなみに、前述の怒鳴られたハコにも転がっていた。そしてこのハコのミキサーは普段はドラムを叩いているドラマーだったことが後でわかった。なるほど。ボーカルに理解のあるハコというのは案外少ないのだ。少なくとも、ミキサーの卓側で歌の音が聞こえていれば、中の音はあまり頓着しない(というよりコントロールしきれないから切り捨て)というハコは多い。

     

     

    80年代にA-Musikで何回か歌わせてもらった時はまた別の問題があった。本番前のリハではきちんとモニターが聞こえるようにしてくれていても、本番になるとメンバー全員が自分の音量を手元の楽器やアンプでぐい〜んと上げるので、結果ボーカルの音は全く聞こえなくなる、という現象だ。今こんなことをまともなハコでやったらPAが傷むからミキサーがカンカンに怒るだろうけど、まあ、80年代のインディーズではあるあるな現象ではあった。

     

     

    当時、わたしの初歩的な解決策として、まず片方の耳に指をつっこんで自分の声を聴く、というのをやった。これは効果がある。よく昔の歌謡曲のテレビ番組なんかでも、歌手が耳のそばにそっと掌をかざして、自分の声を聞き取ろうとする仕草を見かけたものだ。これは知らない人が見れば、歌のゼスチュアにも見えるが、わかる人が見ると、ああ、気の毒に、自分のモニターがちゃんと聞こえないんだな、と思う。普通の歌謡曲の演奏でもそんなことになるのだから、歌謡曲のような声量と表現で、ロックバンドをバックにしたら、、耳を指で塞がないと自分の声は聞こえない。

     

     

    年配者は知っていると思うが、鶴田浩二。彼はいつも真っ白なハンカチを手にもって、片耳を塞いでいた。声量がなく、ビブラートの強い、わたしも彼によく似ている声なので、理由はこれなのがよくわかる。それとたぶん、毎回ミキサーに交渉して自分の声が聞こえない、と説明するのが面倒なのだ。大抵、しょうがないなあ、という反応をされるからだ。だったら白いハンカチで隠して、耳を塞いでしまおう、というわけだ。

     

     

    しかし、耳に指を入れていると、リスナーから質問がきてしまう。耳が悪いのですか?どうしていつも耳に指を入れているんですか?と。それに本来のゼスチュアというのもできない。それで、その後わたしは、自分の解決策として、小さいミキサーを手元に置き、自前のマイクからいったんミキサーに落として、そこから自分用のモニターをとって耳に送り、もうひとつの出力からPAに送るようにした。今、テレビで見る大きな会場の歌手らは皆無線で飛ぶモニターをイヤホンに飛ばしている。あれは、さぞかし耳に悪いだろうと思う。鼓膜を傷つけるのは間違いない。一時、難聴を発病する歌手が多かったのはあのイヤホンモニタのせいではなかったかと私は疑っている。

     

     

    声量が大きければ問題ないのかといえば、そうとも言い切れない。大きな声であれば、声は通るが、ずっと大きな声でなければならない。つまり歌唱が一本調子になる。たいてのロック歌手は、そういう一本調子の歌い方でも複雑なニュアンスを表現できているように見えるのは、ひとえに編曲とか楽曲の構成がうまいからだ。ボーカリストは、本当は表情豊かに歌いたいしそれによって自己実現ができるのだが、ロックの場合、矛盾に陥っていく。ボーカリストの晩年に病的な心理が多く散見されるのも、こういった構造が原因のひとつではないかと私は疑っている。細やかに表現したいことが本当はあったはずなのに、ずっと怒鳴ってばかりの歌い方で、それを賞賛されていると、自分が何を言いたいのか、普通に歌うというのはどういうことか、わからなくなってくるのではないだろうか。

     

     

    80年代、ベアーズに呼んでもらった時、ボーカルの「なかの音(ステージ内でのモニター)」が完璧だった。感動した。「記憶の運河」のボーナストラックに、春の丘のライブバージョンを入れているが、このテイクが奇蹟的にうまくいったのは、ベアーズのPAがものすごくよかったからだ。

     

     

    東京ではマンダラ2でよくやらしてもらったが、このハコもボーカルが中の音、外の音ともにとてもよかった。それで何回かやらせてもらった。今でもボーカル中心のハコのようだ。

     

     

    で、時は流れ、2012年の東京。50歳をすぎて昔の曲を歌う。レコ発をやらせてもらえる機会があり、少しだけ歌った。やはり自分の声はほとんど聞こえなかった。素晴らしいメンバーにサポートされ、思い出深い良いライブだったが、自分のボーカルに関しては、20代の頃と同様にPAで苦しい思いをした。音程ははずれまくった。だが自分も、それまで歌をやめていたのだから、あらゆる点で初心者同然。しかたがなかった。

     

     

    娘やその友人に支えられて、しばらく練習を重ね、2、3年かけて結構声も出るようになった。2015年夏、プランBでテリーの追悼に出させてもらった。テリーがいないからPAは自分で、ということで、手持ちのミキサーから自前の小さなVOXのギターアンプに繋いで自前PAをつくった。これが非常にうまくいった。すぐ横のギターアンプから自分の声が聞こえるって素晴らしい。ギタリストやベーシストはいつもこんな心地よい思いをしているのか。悔しい。どうりでギタリストは思う存分自分の演奏に浸れるわけだ。もう妙な僻み心まで出てきてしまう。この時の音源はYouTubeにもアップしている。

     

     

    その後、都内の一般的な小規模ライブハウスでまたやれる機会を作ってもらい、歌ったが、やはりどうしても、ハコのPAを通すと、歌いづらい。自前のミキサーを持っていったが、そこから店のPAに繋ぐと、2回PAを通すことになるためか、サウンドがうまくいかない。

     

     

    音づくりをいちからやるならソロからだろう。昨年、3回、ソロをやる機会を頂いているが、やっぱりこの問題が解決しない。店のPAに最初に入れてしまうと、自分が自分で歌っている気がしない。だからといって自前のPAを使うと、先日の興文堂でも、逆に外の音がうまくいかなくて、お客さんには申し訳なかったと思っている。先日の場合、私の武装戦線的モニターシステムにより、モニター内の自分用の音は完璧だった(笑)ので、自分にだけはこれでOK!の音がイヤホンから聞こえていたが、外の音はまったくモコモコの音になっていた。ミキサーを2重に使ったのが失敗だった。外の音をよくすると中の音がモワモワ。中をよくすると外がモワモワ。

     

     

    同じ日に、素敵な歌を歌っている出演者がいた。繊細な歌い方が心に響いた。彼女は普通にマイクからPAに拾っていたのだが、彼女もステージ上で、自分の声が聞こえない・・・と言っていた。だが誰も、ぴんと来ないようだった。特に誰かが改善に動くという流れにもならなかった。だってPAでは彼女の声は出ている。そういう場合、外部からは歌手の問題というのは本当に見えにくいのだろう。

     


    面倒がられるかもしれないが、わたしは言いたい。歌手はいつも、ガマンしている。自分の声が聞こえず、歌いづらいことに。大抵の場合、歌手は自分の声を張り上げることで対処する。せざるを得ない。しかしわたしは、声を張り上げると、自分の表現ができない。だってメンヘラで引きこもりだから。そこはゆずれない。いったん再開すると決めた音楽活動。また若い時と同様に辞めるとかで逃げたくはない。

     

     

    というわけで、試行錯誤の途中。読んでもらいたい、わかってもらいたいから書いた。一言二言の喋りで説明するのが難しい事柄なので。あーちょっとすっきりした(笑)。でもたぶん、話の3分の1くらいのところで、あーなんかめんどくさい話、と思われて、あんまり最後まで読まれてない気がする!ここまで読んでくれた人ありがとう!

     

     

    相対性理論なんかは、いわゆるウィスパーのボーカルで、バンドサウンドを、どうやって作っていたのだろうか。ある程度売れるようになって、ブースター的な機材や無線のインカムで補えれば、それはもちろん解決するんだけれども。私が解決したいのは、そういう特殊な場合じゃなくて、市井の(!)ロックバンドで歌う恵まれないうえに声量がないボーカリストの環境水準向上の話。

    この話はまた続きます。。。どうしても解決できなかったら、また80年代の二の舞でライブはただの苦痛になると思うので、今度こそどうにかしたいなぁ。

     

     

     

    エリオット 歌詞

    • 2016.11.24 Thursday
    • 00:41

    エリオット

     

    眠りに就いた あなたのあとで
    そっと 小さな声で
    昔の歌を 歌ってみても
    ああ あなたは何処に

     

    割れた十字架 火にくべて
    神の叫びを手に打ち込んでも
    流れる星は 夜明けの揺り籠へ

     

    巡る思いを あの夜空の
    あなたの 白い足に
    届いたならば 香るサンザシ
    ああ そっと 胸に抱いて

     

    割れた十字架 火にくべて
    神の叫びを手に打ち込んでも
    流れる星は 夜明けの揺り籠へ

     

    詞・曲 小山 景子

     

    ※この曲は、高校の時の友人、中谷恵理を追悼し作った曲です。アナログレコードのインナー・スリーブの詩も同様で、この曲はその続編のようなもの。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    森林と廃墟

    • 2016.09.27 Tuesday
    • 22:53

    毎日の通勤で見る人の群れ。殆ど皆がスマートフォンをじっと見つめている。

     

    人間、特に都会のヒトとゆう生き物は、何か合成接着剤のようなもので現実と呼ばれる平面に貼りついて生活しているのだ、と最近思う。自分も例外なく。

     

    だがわたしの接着剤は人より粘着力が弱く、乾きやすい。 ともすれば呆然として現実の平面からいまにも剥がれ落ちそうになる。

     

    帰途に温かな電飾の灯る街路を抜けるのは嫌いではないし、ほっとしてもいるのだが、そんな時にも、わたしの瞼の裏には、ふとしたはずみで、何百年も前の鬱蒼たる森林と田畑が月光に照らされている夜景が同時に映ってしまう。

     

    こんな風に現実を感じるようになったのはいつ頃からだろうか。

     

    最近はさらに、何十年、何百年後のことかも知らぬが、遠い未来に廃墟となった商店街の風景が脳裏に浮かぶ。 おそらく予見などではまったくなく、単にわたしの中の狂気のなせるわざにすぎまい。

     

    過去の森林も、未来の廃墟も、まったく畏れの感覚は伴わず、むしろそれらはとても美しい心休まる光景として、わたしの日常の現実感を内側から支えている。

     

    半ば自衛の意味で身に着けたこの感覚がなかったら、わたしはもっと疲れ果てているだろう。

     

    ここにあるものを見るとき、ここにあるからこそ見えないものへの憧憬を抱き、その意識を零さないようにして生きている。それによって、現実から剥がれ落ちそうな自分を、どうにか現実に繋ぎとめる。

     

    林檎を買う、林檎の木を思う。それを摘む老人の手を思い浮かべる。

    豆腐を切る、外国のどこかであるいは日本のどこか収穫される大豆。

    水、どこかの山奥でダムに貯まった碧の貯水。 硬貨、どこかの鉱山で遠い昔に掘り出された石塊。というように。

     

    そしてわたしの感覚のなかで、あらゆるものはすべて、廃墟へと向かう。 …なぜアナログレコードを作りたいのかといえば、それが廃墟になじむからにすぎない。

     

    ケースが割れて水に浸食されたCDは、すぐに音を出す道具とも判別すらつかない丸い板になるだろう。 レコードなら、あの艶やかな黒いビニール盤は、うっすらとその輝きを残すのではないだろうか?

     

    赤と緑のラベルが貼られた盤面は、屋根の落ちた家屋の中で風雨に晒されても、しばらくの間は鳥たちに赤い小さな果実の色を思い出させ、優雅な弧を描いて鳩らに舞い降りさせるのではないだろうか?

     

    パソコンは水に浸かればすぐに音もなく実体が消滅するが、書物であればそのページは風に飛ばされて、詩句が天空に奇跡のように翻る一瞬もあるかもしれぬ。

     

    それで、アナログレコードや、書物の制作を夢見るのだが、それらが実際にどうなるかを、見届けることは、残念ながらできない。

     

    わたしのアナログレコードの、最後の1枚はどこに埋もれて眠るのだろうか。はかない心情を歌った曲達は、凍ったまま氷河期を越えたりするのだろうか…。

     

    2016.9.27 小山景子

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